往復書簡㉛ 親愛なる信子さんへ

わたしたちの往復書簡
©エクリール

5月2日、ベルサイユ

メーデーから一夜開けた金曜日の今朝、また未明より目が覚めてしまいました。朝が早くなってしまうのは、年齢によるものなのでしょうか。そして「5月2日」という日付をタイプしながら、もう5月になってしまったのか、とおののいています。昨日はそう思わずに、2日になってから焦りを感じるあたりも、反応が鈍いですよね。時間の感覚が、年齢とともに変わっていませんか。「速い、遅い」がゴムのように一定でなくなっています。

たとえば、幼かった頃の息子たちの写真を見ると、昨日のことのように思えたり。信子さんはそんなこと、ありませんか。
あと、そういう写真を見たときなど、「ああ、もうこの頃のこの子達には、2度と逢えないのね」と寂しくなります。当たり前のことなのに。
そう思うと、一秒という時間の中には、出逢いと別離が詰まっている。時って哲学的ですね。

実は、今日書きたかったことも「時」のことです。意識したわけではないのに、書き出しからそうなっています。

冒頭の写真の話をしたかったのです。
拙宅の門扉にかかるように、この藤を植えたのは、5年前のことでした。日本に住んでいたときに訪れた奈良の春日大社で、薄桃色の藤に出逢って以来、憧れていたのです。藤は育つのが早いのですね。蔓はどんどん張りました。季節が来れば美しい葉っぱもどんどん生える。でも花はつかず。「薄桃色の種は難しいのかもね」と言われ、春日大社を夢見たわたしは分不相応(そりゃそうですよね……)だったのかも、と諦めの境地にいました。

それが今年ようやく咲いたのです。薄桃色というよりなぜか藤色に近いけれど、でも咲いた! 藤だけではありません。庭の植物たち、林檎の樹も、いちじくの樹も、芍薬も、ラベンダーも、今年はよく育っています。庭園のスペシャリストの友人に聞くと、「うんうん、庭は5年くらいかかるかもね」とのこと。土壌に馴れ、根を張るのに時間がかかる。その間も、辛抱強く水を上げ、肥料を足して(夫が、ですが)、ようやく形になってきました。

もちろんその間に、枯れてしまった植物もたくさんありました。
桃の樹は、虫にやられてしまいましたし、ダリヤは陽射しが足りなくて、小さな花しか咲かせなくて、放置していたら消えてしまいました。

あと、予想外に育ったものも。
ヒヤシンスはその一つです。花が咲き終わった球根を隅っこに放り投げたら、翌年から毎年花を咲かせてくれて。すみれの花も年々増えている。

わたしは、バターカップという愛称で知られるキンポウゲ(漢字で書くと、金鳳花。何だか立派ですね)が、少女時代の昔から好きなのですが、これは自然発生で広がってくれていて、今年はそこだけが草原のよう。そんなバターカップたちに、何か幼馴染のような絆を感じています。まるで、フランスという異国に流れ着いたわたしを、「大丈夫よ、わたし達がいるから」と慰めてくれているようで。

わたしは何でも擬人化して考える癖があるのですが、この庭に関しても、考えさせられています。

一つ、何かを成したいのであれば、時間はかかる。辛抱大切。
二つ、枯れてしまう情熱、合わないものは諦める。一方で、伸びなくとも存在しているものは大切にせよ。
三つ、植物のような生き方は素敵。辛抱強く、マイペースで、地味でもよい、人にやさしく、時が来たら静かに目を瞑る……できるだろうか、こういう生き方。

何だか教訓めいていますよね。自分でも苦笑いしています。

前回の信子さんのお話はとても面白く、「ああ、信子さんは言語がお好きなんだなぁ」と感じました。それで、わたしは何が好きなのかな、と考えていたのですが、わたしの場合は「人」ですね。だれでも、好きであっても嫌いであっても、人には関心を持たざるを得ないものでしょうが、わたしは人一倍、その度合いが強くて。人と人の同じところ、違うところ、なぜそう考えるのか、なんでそんなことをするのか。人を理解するヒントをいつも探していて、だから庭すらも擬人化してしまったのでした。

でも、このくらいにしておきます。今朝のわたしの、徒然なる思考にお付き合いいただき、ありがとうございます。

日本も薫風の季節ですね。パリやベルサイユの5月も素敵ですが、東京+近郊の5月の爽やかさ、空気の匂い! もうれつに懐かしいです。

どうぞ美しい季節を慈しまれますように。

かしこ

追伸:末っ子君が戻ってこられたのですね。信子さんが頬を緩めて喜ぶ姿が目に浮かんでいます!

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