「本を読もう」コーナー、ご挨拶にかえて

本を読もう
ヴォールヴィコント城の図書室

ふとした言葉に、気づかされることがあります。

ある言葉に出会い、はっとする。
はっとしたこころの動きが小さな波動を起こし、
その波動がわたしの中の下の方に届き、藻に包まり休んでいた本心をほどく。
本心がふわふわと浮き上がらせ、

「ああ、そうだった、そういうことだったんだ」
となる……。

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先ほど読んでいた本にて、まさにそういう体験をしました。
文学紹介者の頭木弘樹さんの『カフカはなぜ自殺しなかったのか』の中の、言語隠蔽という現象に関する下りです。

頭木弘樹さんについて。

頭木さんは、20歳の頃に突然難病に冒され、10年余りに渡って寝たきり同然の生活を余儀なくされた経験をされている方です。その時代に読書に目覚め、多くの文学作品に救われたそう。

頭木さんは、「絶望の中で倒れているときに寄り添ってくれる小説がある」と言います。中でもカフカの作品に感銘を受けられて、以来カフカの在野専門家として独自の視点からカフカの作品を紹介する書籍を書かれています。

そのほかにも、ドストエフスキーをはじめとする文豪から、漫画、映画、そして落語などの「絶望系」作品を、真摯に、ときにユーモアも交えて紹介してらっしゃいます。

「絶望」という言葉は強すぎるとしても、夢を諦めたり、自分に人にがっかりしたり、現実を突きつけられ目が覚めたり。大人になるとそういうことが増えるばかりではありませんか?
わたしはそういうフェーズにあります。そんなこともあり、頭木さんの書かれるもの、紹介されるものの大ファンなのです。

言語隠蔽とは

言語隠蔽とは、言語化することで記憶や感情が限定されてしまって、実際にはもっと幅広く認識していたこと、感じていたことが消されてしまう、という現象です。

本書ではカフカが、言葉にしてしまうと失われる感情がある、という趣旨の言葉を遺していることを紹介されています。(「言葉にすると肝心なものが失われる」という項より)

カフカ、そしてわたしの相棒、キンドル君

このカフカの言葉を補足するためにもっと具体的な例として、ワインのテイスティングについて挙げられています。

あるワインを試飲し、その5分後に4種類のワインの中から先ほどのワインを判別する、という実験では、試飲のあとに味わいなどを言葉で表現してからだと、正解率が下がるそう。
逆に、試飲したあと、その味・香りをそのまま抱いたままワインの神経衰弱に挑むと、正解率が高くなるんですって。

他にもカップルの別離率や、犯罪に関する例など、言語隠蔽の影響はいろんなところで見られることを知り、大変興味をそそられました。

ここからスタートして、頭木さんは、言葉にしてふさわしいもの、ふさわしくないものがある、と言います。

昨今は言語化することのポジティブ面ばかり耳にしていたので新鮮な切り口。
ふむふむと、と目は文字を追うのですが……。

思い出すあの人……

一方で頭の片隅では、昔の友人のことを思い起こしていました。

「昔の」というのは、もう十年ほど音信不通になってしまっているからです。

彼女とは20代前半に知り合って、すぐに仲良くなりました。考え方や置かれている環境が似ていたからでしょう。その後、わたしは渡米&渡仏して、彼女は日本で仕事を続けて、と道を分かつことになりましたが、それでも5年に一回、3年に一回は会って飲んで、と不定期ながら繋がっていました。

30代のころの彼女は仕事もプライベートもトラブルが続き、ネアカだった丸顔は、頬もこけ、歪んだ笑顔には翳りも射すようになっていて、口を開けば「絶対に許さない」「ありえないよね」「恨んでる」とネガティブな言葉も増え、大丈夫かなぁ、と気になっていました。

それが40代になると、まろみある女性になり、
「仕事もプライベートも、大変なことは変わらないけれど、毎日の暮らしの中で小さな喜びを見つけることができるようになった」
と前向きなことを言うので、素晴らしい、よかった、と安堵したのです。

他の人も交えた飲み会でも、上手に話を聞いて、場を盛り上げてくれて。
もともとコミュニケーション力が高い人ではありましたが、
「うわ、心のひだが豊か!」とか
「どんどん掘り下げられて学びがあるわぁ」(どちらもわたしに向けられた言葉ではありません、念のため)などなど、聞きなれない語彙や話力に感心しましたっけ。

疲れちゃうよね

頭木さんの文章を読みながら、この頃の彼女のことを思い出していたのです。同時に、今まで認識していなかった違和感も一緒に浮上してきて。

「そこまで巧みに思ったことを言葉にしなくてはならないのか」と、どうやらあの時はわたしは感じていたようなのです。

ある人の発言に繊細な何かを感じたなら、それを受け止めるだけでいいよね?
脳みそが刺激されているのを感じるなら、その刺激をただただ楽しめばいいよね?
器用に言葉にしなくていいよ。
わかりやすい言葉で伝えなくてもいいよ。
自分の気持ちって、そんなにわかりやすいものじゃないし。
だからいいよ。
大丈夫だよ。

……と実は思っていたんだなぁ、10年くらい前の自分は、と気づいたのですよ。

すみません、それだけのことなのに、こんなに長く書いてしまいました。

彼女とは、この辺りから音信が途絶えてしまいました。
昔の仲間の誰とも連絡を取っていないそうです。

上手に、頭を使って言葉を操って、
ポジティブを絞り出して、
わかりやすいコミュニケーションをマスターして、

「感じたこと」達が言葉の中に閉じ込められたちゃったのかな。
こころの中のもやもやがデリートされちゃったのかな。
伝えることに疲れちゃったのかな。

どこかで元気でいてくれたら嬉しいな。

小説の本質とは

ダラダラと回想録、スミマセン。

頭木さんは、この章でもっと大切なこともおっしゃっています。

「小説家は、言葉を使って言葉にならないものを表現しようとし、読者は言葉を読むことによって、言葉にならないものを受けとめる。」

ああ、ほんとにそうだな、と思います。

素晴らしい小説を読んだあとの、

胸の中に海が広がっていく感覚とか、
星空にぷかっと浮いているような静寂感とか、
除夜の鐘を近くで聴いたあとのように、共振に頭がぼわーんとするのとか、

あれは、何かを受け取ったから。言葉を読んでそこから「言葉にならない何か」を受け取ったから、身体が、頭が、心が、反応しているんですよね。

挨拶になっていない挨拶

はい、長くなりましたが、たどり着きました。

こちらでは、乱読・浅読(そういう言葉はあるのでしょうか)なわたしの読書録から、そんな何かを「受け取った」小説たちを紹介していきたい、と思っています。

小説だけでなく、時には伝記やエッセイ、解説本からノウハウ本などもご紹介します。

皆様も、面白い本、小説をご存じでしたらぜひ教えてくださいね。

どうぞよろしくお願いいたします!



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