5月30日 ベルサイユ
おはようございます。芍薬のブーケを前に、ノートパソコンに手紙をしたためています。便箋に万年筆にてさらさらと書けたならもっと風情があったでしょうにね。
風情なし、という点ではこのブーケもそう。母の日に自分で買ったものなのです。信子さんもご存じのように、フランスの母の日は、日本の母の日とは異なり、先週末のことでした。朝、マルシェに行ったときに自分でさっさと買っちゃっいました。
さっさと買ってしまった理由……。
少し前に、息子達から愛を感じない、と愚痴を書いたと思うのですが、実は思い直しています。近年、色んな方の話を聞いたり、小説や書籍を読んでいて、母親が子供に与える影響の大きさを痛感していたことを思い出したのです。良すぎる親というのも重石となるし、悪い親が子どもに残す傷は深くって。
ならば。
わたしという母親の愛を、息子たちは「感謝しなくちゃ、返さなくちゃ」と思っていないようだけど、それくらいで調度いいのかも、と考えるようになったのですよ。母の日の花も、圧をかけるくらいなら、自分で買ってしまえ、となったわけです。(ちなみに、息子たちからはマリアージュフレールのお茶を貰いました)
話変わって、明日で5月は終わりなのですね。振り返ると、5月は考える月でした。前々回のお手紙に、教皇フランソワのご逝去について触れられていましたが、そこからわたしの「考えるモード」が始まったように思います。
わたしの周りには、教皇フランソワと同年代の方が多いのです。知り合って20年以上経ち、昨今はご病気されたり、「ああ、小さくなられたなぁ」など、年月を感じることが増えました。
歳を取ると子どもがえりする、とはよく耳にする話ですが、子どもがえり、というよりは、その方の芯の部分が見え隠れし始めるように感じています。木の年輪のように、中心部は年々新しい木の幹に覆われ見えなくなるけれど、残っているわけで。
歳を取って急にネガティブなことをばかり口にするあの方は、かつて受けた傷をそのままに年を取った方なのかな、と思ったり、一つ一つに勇敢に立ち会って生きてきたあの方は、だから穏やかな老年期を迎えられているのかな、と考えたり。
そう、考えているのです。わたしは、どんな老人になりたいのか、と。
ほら、若い頃は、「こんなキャリアを持ちたい」「結婚したい」「子どもは要らない・欲しい」など、思っていたでしょう?
でも、わたし、80才から先については、考えたことがなかったのです。終の棲家はどこにしたい、とか、そういう現実的なことは考えても、「人としてどうありたいか」を考えたことがなくて。
信子さんは考えてらっしゃいますか? ご高齢となった信子さんは、今と同じようにやさしくも、シャキシャキしていらっしゃるんだろうな、ふふふ。
80才。そこまで生きることができるのか、もちろんわかりませんが、その時を迎えられるのであれば、わたしはどんな人間でありたいのか。もう家族ケアやキャリアは終わっている、そういう世代になったとき、わたしはどうありたいのか。
そこが見えてきたら、そこから逆算して、今、何をしたらいいのか、今後どんなことを大切にしていけばいいのか、そんなことが一層クリアに見えてくるのではないか。そんな予感がしています。
先日の、信子さんにもご視聴いただいているオンラインサロン・エオスで、庭園文化のスペシャリストの遠藤浩子さんから、「フランス式庭園は、パースペクティブがあることが大切」という話をしていただきましたよね。これ、人生においてもそうだな、と感じています。パースペクティブのある人生、わたしのこころの中の庭。もっと説明したいけれど……。
……でも、この辺で止めておきます。またいつか、そんな話も聞いてやってください。
今日のベルサイユは夏日となる見込みだとか。東京は、まもなく梅雨の季節ですか。めぐる季節、速すぎる、と言ったところで容赦なし。楽しみましょうね。どうぞ素敵な週末、そして一週間を!
かしこ