「視点を変えてフランスと日本から」ペレ信子 x ドメストル美紀 ~言う・言わないの文化①

わたしたちの往復書簡
今、ベルサイユ宮殿のトリアノン宮で開催中の、ソフィア・コッポラによる「映画マリーアントワネット」展にて展示されていた、食事シーンのスケッチです。如何にも会話がなさそうな食卓ですよね。

一つのテーマについて意見を交換するシリーズ。今回は、ワタクシ、ドメストル美紀が、思ったことを、「言う、言わない」というコミュニケーションの在り方について、話したいと思います。

というのも、先日、日本にいる方とメールのやり取りをしていたのですが、途中で返信が途絶えてしまうということがありましてね。それまでは3日を開けずにやり取りがあり、交渉が進んでいたのですが、一週間待っても返事はなく。「ああ、これはノーってことね」と理解して今に至っているのですが、ちょっと考えさせられました。

日本でのコミュニケーションで、自然消滅というかフェードアウトして終わること、多い?返事をしないというのも、一つの意思表示ですよね。ただ、それを相手に読み取らせるのか、それとも言葉にして伝えるのか。そこに、コミュニケーションの文化的な違いがあるように思います。そんなこともあり、ふと、フランスでは自然消滅って少ないな、と気づいたのです。

わたしがフランスで暮らしてきた中で感じるのは、フランスの人たちは、自分の考えや感情を言葉にすることに比較的積極的だということです。我思う、ゆえに我あり、といったのはフランス人の哲学者ですが、わたしは、「我思ったことを言葉にする、ゆえに我あり」としたい。それくらい、フランスの多くの人は、自分の思ったことは伝えたい人々のように感じます。

そういえば、こんなことがありました。息子達が幼かった頃ですから随分昔のこと、義母が主宰した社交イベントをサボったことがあります。わたしとしては、その日子ども達の発表会があったのでそちらの方が大切だったし、夫に誘いが来ているのは知っていたけれど、わたしは直接招待されていないから、このうやむやな状況を利用して、しれっと欠席したのです。すると後日義母と会ったときに、「なぜ来なかった」と問いただされました。冷静ではあったけれど、不快なこともちゃんと伝わる口調です。このときに、「ああ、この国の人は『言う』人達なんだ」と知りました。

ウォーキング仲間は、時には歩く方が疎かになるほど、よく喋ります。政治のこと、社会のこと、家の建て替えのこと、子どもの学校のこと……共通項だろう話題を上手に見つけながら、「ワタシはこう思う」と言います。するとそれに対して別の人は「私は必ずしも同じ考えではない、なぜならば」ということも言います。このような反論は言い出しにくいだろうに、それでも、自分の思ったことは言いたい、言うべき、という矜持があるように感じます。ディナーなどの社交の場面でも同様に、皆「言う」のです。

夫の職場の話を聞いていると、そこに策略的・戦略的な面が加わるので、思ったことを敢えて伝えない、という場面もあるようですが、基本的には意見を「言う」。意見を「言わない」ことは、ずるい、無責任、興味がない、変な人、と見なされる可能性もあり、意見がないのならせめて、「今の段階で自分の考えを伝えるには尚早なので」と発言保留の意志を伝えるなど、コミュニケーションの場にいるなら、「言う」ことがスタンダードと考えられているようです。

一方で、わたし個人としては、自然消滅に対する理解はあります。ほろ苦い経験なのですが、昔々大学生のとき(すなわち日本でのこと)、当時付き合っていた人から連絡が途絶えましてね。自然消滅を狙っていたのでしょう。わかっていたけれど、わたしったらしつこく「どういうこと? 別れたいならちゃんと言って」と迫ったのです。その方がわたしとしてはすっきりするから それくらいはして、と思って。
そうやって取りつけた最後の面会の別れ際、相手の方から「傷つけたくないからそう(自然消滅)したのに」と言われて、はっとしました。もちろん、それが本当にわたしを思いやってのことだったのか、あるいは自分が別れを告げる苦しさから逃れたかったのか、今となってはわかりません。
ただ、少なくとも、言葉にしないことが必ずしも無関心や無責任を意味するわけではないのだと、そのとき知りました。

わたしは口から先に生まれたような「言う」人間なので、「言われる」ことを好むのですが、世界には、「言われる」ことでトラウマになるような傷を受けてしまう方も多いでしょう。そういう方達は自然消滅的な終着点の方が受け入れやすいかもしれませんね。
また、白黒をつけずに、グレーのままにしておく方がいいことってありますよね……。
言うことが誠実さなのか、言わないことが優しさなのか。
皆さんはどう思われますか。

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