「視点を変えてフランスと日本から」ペレ信子 x ドメストル美紀 ~~語学について①

わたしたちの往復書簡
モンマルトルにある、Halle St. Pierre内の書店。 この夏、信子さんと一緒に行ったときに撮った写真です♡

親愛なる信子さんへ、

先週は、多文化ルーツの子育てについて、わたしたちの思うところを書き綴りましたが、今回は、その流れで、語学について話してみませんか。信子さんは、日本でフランス語を教えていらっしゃるプロですし、語学というものに関してどのように感じているのか、ぜひ聞きたいです。

語学の問題は広い範囲に及びますよね。
日本語という点においては、少し前には、国語のアプローチに関して話題に上りましたね。読解力を上げることにもっと力を注ぐべきだ、教科書の、『走れメロス』や『山月記』などは要らない、という意見がありました。授業中、先生の話は聞かずに、教科書にある物語を先走りし読むことで居眠りせずに済んでいたわたしとしては、あれなくして国語は成り立たないのでは? と思ったものです。一方で、「論理国語」と「文学国語」の区別という点では興味深いと思っていました。

フランスの学校教育を見ていると、文学と論理をかなり近いところで扱っているように感じます。すなわち、フランスの文学作品を、論理的に理解する、というアプローチです。フランスの教育では、特に高校以降、小論文形式の課題を通して、論証の組み立て方や、異なる立場を検討する方法を学びます。それをさらに哲学の授業で極めていく、という感じですね。

語学というのは、言語というだけでなくて、ものの考え方も伴うものなのだなぁ、というのは、海外で暮らしていて思うことです。

先日読んだ書籍*には、日仏米の思考の違いが簡潔にまとめられていました。
それによると、日本人は、他者との関係・共感を大切にし、また物事の背景を、自分が感じたことやそういう結論に至った理由として重んじているので、時系列に沿って説明する傾向があるとありました。これ、まさに「わたし」です。

そして、「だからか!」と思いました。
わたしが、何か話しだすと、息子からは、「ママ、何がいいたいのかわからない」と遮られることが多くて、常々「感じ悪い!」と思っていたのです。多くの場合は、わたしが時系列を追って、状況を説明している辺りで、ストップが入ります。彼らは、フランス語で考えることに慣れているからなのか、主題も示さずにだらだらと話すわたしにイライラするのでしょう。
また、彼らの話を聞くときに、共感を示すと、この合いの手の意味がわからないかのように目がハテナマークになっていることがあります。これも求められていなかったんだ、と分かった次第です。

同書籍には、フランス人の思考に関しては、「矛盾を検討し、統合することを重んじる」とありました。
これは本当かしら、という思いがあります。だって、フランス人といえば、「モア、ジュMoi, je」ではありませんか。「わたしはね」から始まる自己顕示のトーンが強い話し方。なので「検討」とか「統合」はそれほど重んじていないのでは? と思わんでもなく。

……ただ、うん、夫や息子の会話を思い返すと、

「今日はこんなことがあった」と話し出す
↓
「でも、しょうがないという気持ちもわかるんだ。なぜなら……」
↓
「だけど、やはりここは変えるべきだと思う」

というふうに話が流れていくこともありますね。ですので、60%納得、としておきます。

そうそう、米国の思考回路については、自分の主張を明確にし、相手を説得することとありましたが、これはよく言われていることですね。
わたしは、日・英・仏を使って暮らしていますが、どの言葉を使って、どの文化の人に話すかによって、多少は思考回路を鑑みて聞く・話すことを意識すべきだったのか、とようやく最近になって知った次第です。とはいうものの、それは簡単なことではなく、わたしはわたしでしかいられないのですが。

そして、海外に長く住んでいると外国人っぽくなる、と言われることがありますが、それは、その国の言語を使う時間が長くなると、思考回路もその言語特有のものがデフォルトになるからではないかしら。

……などなど、徒然なるままに(←これ、日本人、いや日本語ならでは、なのでしょうね)思うところを書いてみました。本当は英語教育について書こうと思っていたのに、あらら、全然違う方向に行ってしまったわ。だから息子達にイライラされるのでしょう。

反省しつつ、今日はここまでにしておきます。

かしこ

*『論理的思考とは何か (岩波新書) 』渡邉 雅子著

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