わたしのふらんす⑦ 意地悪なフランス人?!

わたしのふらんす
©エクリールKayo

在仏歴20年余りの「わたし」が視てきたフランスについて語るシリーズ、今回のテーマは「フランス人は意地悪」という都市伝説についてとなります。

フランスといえば「街々はいいけれど、意地悪な人が多い」とは、昔からよく聞かれるところです。
でも、わたしはこれ、違うと思うのですよ。

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「親切」「優しい」「丁寧」と評判高い日本人と比べると、確かにそうではないフランス人が多いようには感じます。でも「意地悪」という表現は微妙にずれているかと。

フィットする言葉を探すならば、フランス人は「一言多い」のだと思います。それが、ネガティブな感情を呑み込みがちな日本人には意地が悪く感じられる、さらに、フランス人は隠すのが下手なので、何か企てているときなど、ずるがしこそうな顔をするから意地悪そうに見えるだけ。そういうことではないか、と思うのです。

フランス人は一言多い

日本の感覚だと、「言ったところで何が変わる」「これってお節介よね、余計なことは言わないでおこう」「ま、いずれ自分でわかるだろう」「あらあらお気の毒に。そっとしておいてあげよう」……こんな場面ってありますよね? そういう場面で、一言バシッと投げつけてくる。これがフランス人なのです。

以前こんなことがありました。
自転車で大きなロータリーの横断歩道を渡ろうとしていたときのこと。後ろ隣には同じように待つ自転車が控えています。実はこの自転車、先ほどわたしの前を走っていたのですが、途中で追い越したのでした。何も競ってそうなったのではなくて、乗り手のマダムが携帯に応答するために一瞬自転車を停めたから追い越しただけのこと。それが横断歩道でまた追いつかれたのです。

ようやく車の流れが止まり、チャンスが来たので、よっしゃ渡るぞ、と乗り出そうとしたわたし。すると、きゃっ、目の前をバスが! わたしったら停留所から来るバスを見過ごしていたのです。フロントグラス越しに見えるドライバーは「勘弁してくれよ」と呆れ顔あらわ。クラクションも鳴らされました。スミマセン、スミマセン。慌てて歩道に引き下がるわたしの前をバスは怒ったように通り過ぎていきました。歩道にいるわたしは自分のうっかりさに恥じ入って、表情とジェスチャーで「ごめんなさーい!」と小さくなっていました。

するとその時ですよ。

後ろ隣にいた自転車のマダムが、鼻をつんと上に向け、「お気をつけあそばせ」と高らかに捨て台詞を残し、わたしの前を走り去って道を渡っていったのです。
え? なに? 今の一言、いらなくない? 恥の上塗り? いや、因幡の白兎に塩塗り込む? 自分の耳が信じられないとはこのことです。

でも少し経つと、あれもフランス人気質ってやつよね、と笑えるようになりました。
あのマダム、フランス人としては言わずにいられなかったのでしょうね。「ああ、危なかった! 」と湧きおこった感情、「事故にならなくてよかった」という安堵、「気をつけなくちゃよ、マダム」というお節介心。あと、さきほど自分を追い抜いたわたしに対する「してやったり感」もあったのかも。
これらを呑み込むことはできなかったのでしょう。それであの捨てセリフが出てしまった、というだけで、かわいいじゃないですか。

車ネタで続けると、フランスで運転しているとよく遭遇するのは、運転ジェスチャーによる「余計な一言」です。
わたしがのろいと思うなら上手に追い越せばいいだけのことなのに、わざわざ煽るように近づいてギュイーンと追い越していきます。自分のイライラをその原因であるわたしに思い知ってほしいのでしょう。
渋滞のパリ、もたついているとすぐクラクション鳴らされます。「運転が下手なこと、重々わかってるけど、わたしが動いたところで何も変わらないよ」と思うし、相手もそれはわかっているのでしょうが、イライラしている感情を誰かに渡さないと気が済まない。
フランス人気質を感じるときです。

他にもあります。
テストで失敗し落ち込んでいる子どもに、「だから勉強しろって言ったのに」という親。ピアノのコンクールでとちった生徒に、「あそこを気をつけなさいって言ったわよね」と叱る先生。もう済んでしまったことなのに傷に塩擦り込むなんて可哀そうなのですが、親も先生も残念で残念で、つい言わずにはいられないのでしょうね。

お分かりいただけますか? いずれも、悪気はない、意地悪ではないのですよ。

フランス人は正直(誠実という意味ではありません)

フランス人は、清い心も、計算高い考えも、利他的な心も、利己的な心も持っている人達です。建前もあれば本音もある。ジェラシーもあれば、平等意識もある。日本人だってそうですよね。

では、何が日本人と違うかといえば、本心を隠しきれないところだと思います。本心が、行動に、言葉に、表情に見え隠れしていて、一言で言えば「わかりやすい」のです。

日本人であれば、どんなに嫌なことがあった日でも、「人に迷惑を掛けてはいけない」「人に知られたくない」から、本心は押し隠し、やわらかい笑顔で、「どうぞ」と道を譲りますよね。少なくともそうあろうとする人、多いですよね?
フランス人は、むしゃくしゃしていたら不機嫌をあらわに眉間にしわを寄せ、他人に道を譲ったりせずに突進しますよ。
嘘ついているときはそういう顔しているし、落ち込んでいるときは全身で落ち込みを表現するし、上手く行ったときは、満面得意顔になる。

あと、人間関係においてもわかり易いです。
職場や友達でも、納得いかないことがあれば、それを顔に、言葉に出します。「なんでさっきはこうしたの? おかしくない?」と。もちろん上下関係がある場合など、ケースバイケースですが。

まとめますと、フランス人は感情を押し殺すことに慣れていないので、顔に出易い。ゆえに、攻めの言葉を発するときなど、ちょっと意地悪に見えてしまう、というのはあるように感じます。

フランスという土壌、日本という土壌

こうしてフランスに長く住み、こちらから愛する日本の様子を追っていると、ああ違うな、ああ同じだな、とついつい比べてしまいます。日本人とフランス人は似ているところがたくさんあって、だから相思相愛なのでしょうが、根本的に異なるところももちろんあって。

今回は、フランス人は意地悪か、というテーマで、フランス人気質についての洞察を書き連ねました。フランスは感情露呈型、日本は感情呑み込み型。どっちも長所短所があり、どっちがより優れている、劣っている、ということではありません。

感情露呈型のフランスでも、ストレス過多でうつ気味の人は多いですし、日本でも「生きづらさ」という言葉がよく使われるようになりましたし。

ただ、フランスの「一言多い」で、日本でも取り入れたらいいのに、と思うことを一つ上げさせてください。

「言ったところで何が変わる」と思い、声を上げないのが日本人だとすると、たとえそう思っても声を上げるのがフランス人です。

思うところがある。でも、それを伝えることで波風が立つし、結果は変わらないだろう。なら泣き寝入りした方がいいのではないか。対立はエネルギー費やすし、うん、呑み込むか……フランス人はこうは考えません。

意味がない? いえいえ、言わないと伝わらないです。溜める、呑み込む、というのは限界があります。心身健全であるためには、誰かに話さなくては。気持ちを表さなくては。抱えてしまってはダメです。

フランスでは、おかしいと思ったら声を上げる。以心伝心などナイナイ。「声を上げる」ーー究極の形はデモでしょう。フランスのお国芸ともいえるデモですが、運よくモメンタムが生まれ、大きなうねりとなった暁には何かが動くこともあります。でも、多くの場合は何も変わらず終わり、ですよ。そういうデモに参加したことがあります。でも、思ったことを行動に出す、共有するという行為は、実に気持ちのよい経験でした。

ま、「デモ」というのは極論として脇におきましょうか。
もっと身近なところに「投票」というのもあります。あれも一つの声ですよね。

七夕の日、東京では都知事選が、フランスでは議会選挙があります。
わたしはどちらにも投票権がありませんが、
東京で、フランスで湧きおこるだろう、たくさんの「声」に耳を傾けたい、と思っております。

次回は、20日に更新予定です。
暑い折、どうぞご自愛くださいませ。

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